黙想の糧(6月23日)
マルコ3:20〜23

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

「あの男は気が変になっている」

 マルコ福音書は、イエス様の活動の初期の悪霊追い出しや、多くの病人が癒されたことを伝えています。この福音書によれば、ガリラヤ周辺での宣教の拠点は、カファルナウムにあるペトロの家であったようです(1:29、2:1)。多くの人がイエス様を求めて追従してきたようですが、その働きに対して疑問を持つ人もいました。その中には、イエス様の家族もいました。
 「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっていると言われていたからである。」(3:21)「取り押さえ」という言葉は、良い意味では「(手を)取る」(1:31、5:41)とも訳されますが、悪い意味では、「捕える」と訳されます。後者の用例は、14:43以降のイエス逮捕の場面に何度も出てきます。
 イエス様の家族が取り押さえに来たのは、自分たちの思いとしては「手を取って」助けたい考えからでした。「気が変になっている」(直訳は外に立っている)という声を聞いて、「取り押さえ」ようとした家族の行動は、イエス様を愛していたからです。好意的に考えれば、イエスよ、あなたのせっかくの癒しの能力をなぜもっと効率的に生かさないのか?という忠告であったのかもしれません。
 しかし、イエスを愛すると言いながら、本当は自分の思惑を愛している。イエスが私たちに従ってくれるなら、喜んでイエスに従うけれど、そうでなければ、すぐに「取り押さえ」ようとする。イエス様の歩みに自分を合わせられなかったのは、本来最もイエス様に近いはずの家族でした。
 翻って私たちはどうか。イエス様のためと言いながら、自分の信念や生き方にイエス様を合わせるだけで、イエス様の歩みに自分を合わせようとはしない、ということはないか。この“誘惑”に気づけない人が、イエス様を裏切っていくことを聖書は語っています。