黙想の糧(10月21日)
ルカによる福音書18:9〜14


自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

「うぬぼれ」

  先週は、加藤兄より冒頭のみ言葉から奨励をいただき感謝でした。イエス様のたとえとして語られた「ファリサイ派と徴税人のたとえ」でしたが、「うぬぼれ」という言葉について、日本語の翻訳と、原文での理解がかなり違うように思うので、少しだけ説明します。
 「うぬぼれ」は、漢字では「自惚れ」とも書くように、実際以上に自分がすぐれていると思い込んで得意になる、といった意味で使われるように思います。この言葉は、「ペイソー」というのが原語ですが、聖書では文脈によって様々な意味を持ちます。ルカの福音書のここでの「うぬぼれ」は、「自分自身に頼る」というのが本来の意味です。
 ですので、イエス様はこのたとえで、ファリサイ派の人が「うぬぼれている」と語っているのですが、それは、この人が「自分を優れていると自惚れている」ことを非難しているのではなくて、「神に頼らずに、自分自身に頼った」ことの生き方を問題にしているのでした。
 一方の徴税人は、自分の無力さを知っているので、自分に頼ることができません。だから彼は、憐れみの神に信頼をおくしありません。ファリサイ派の人も本当は弱い人です。弱いから、一生懸命自分の弱さを努力で克服しようとしました。そこまでなら良かったのかもしれません。しかし、そのような自分を頼りにする生き方が、「他人を見下す」心を生んでしまうと、イエス様は見ています。
 自分の弱さを、神と出会うための欠けとして開ける人こそが、イエス様は神の前に正しい人だと言われたのでした。