黙想の糧(7月28日)
マルコによる福音書8:17〜18

なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。

「しるしとしての奇跡物語」

 マルコによる福音書は、主イエスの奇跡物語を18収録しています。たとえ話は4つ(or5つ)だけです。このバランスは他の福音書とは明らかに違うマルコ福音書の特徴です。
 先週取り上げた5千人と、4千人に食べ物を与えた物語(6章と8章)は、一般的に「パン(魚)を増やす奇跡」と呼ばれていますが、しかしよく読むとパンが増えたとはどこにも書かれていません。パンが増えただろうと考えるのは、「満腹」したことや、「籠の数」の描写から、私たちの常識で「増えた」と推測しているからです。しかし、マルコに限らずこの物語を記した他の福音書の記者も、「パンの増えたことには」触れてはいないのです。
 なぜ、そのことを書き留めなかったのかといえば、主眼がパンの増加に置かれていないからです。イエス様がこのことを行ったとき、実際にパンは増えたでしょう。しかし、福音書記者はそこに語るべき意味を認めなかったのです。パンの増加よりも、もっと大切なことを書きたかったのです。それは、旧約聖書で民を養うと約束していた神がイエスとなって、私たちのうちに現実になったということです。パンの増加という奇跡よりは、イエスこそ私たちに命を与え養う神なのだと、信仰を告白するために語られているのです。 
 奇跡はひとつの「しるし」です。しるしは、道路標識のようなものです。それ自体には意味はありませんが、何かを指し示すことによって意味を持ちます。「パンの増加」が本当か嘘かという議論は、自分の常識に目を向けるということでもありますから、そうであれば、しるしが指し示す意味は理解のできないものとなるでしょう。奇跡の示す方向は、十字架と復活のキリストです。このキリストから、もう一度「奇跡物語」が指し示す意味を受け取り直したいと思います。