黙想の糧(6月28日)
マルコ1:16〜20

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。

「わたしについて来なさい」

 原文は「わたしの後からついて来なさい」です。
ガリラヤの貧しい漁師たちは、見知らぬ男イエスのこの言葉で、網を捨ててついていきました。出会いは、ある日突然でした。しかも普段の生活の中での一方的な言葉です。出会った漁師たちは、一旦家に帰って身支度をしたわけでもなく、イエスという男がどういう素性か調べたわけでもなく、「理由もなしに」ついて行きます。
 イエスを信じることは、従うこと。聖書はこの二つを切り離しては考えません。ただ一つのことを問います。あなたがどの場所でイエスを信じ従うのかをです。そして、その場所とは、「わたしの後」だと言われます。
 自分のことはわからないものです。ひっそり、慎ましく後からついていくと思いながら、自分にとって居心地のいい場所を作り出していることがあります。また、ペトロのように、自分の考えが先にあって、その考えにイエス様の言葉を従わせることが、後だと勘違いしてしまうこともあります(8:31〜33)。
 今、私はどこにいるだろうか。本当にイエス様の後からついて行こうとしているだろうか。私の側の「理由」ありきで、向こうからの語りかなどには耳を傾けもしない、自分本位の従い方をしてはいないだろうか。
 主よ、あなたの声を聞かせてください。私の理由をあなたに求めるよりも、あなたにある願いを、受け入れていくことができますように。イエス様の後とは、十字架を見つめる場所のことだと悟らせてください(8:34)。
————————————————————-
「後」は旧約聖書で「背中」とも訳します。また背中は、「未来」とも訳します。イエスの後こそ、本当の未来が開かれる場所ということでしょう。