黙想の糧(5月12日)
ルカ24:17

イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

「エマオの途上に現れたイエス」

 ルカ福音書が記すエマオに向かう2人は、イエス様の弟子たちでした(ルカ24:13)。十字架の死を知っている2人は、エルサレムからエマオに向かっています。その距離は60スタディオン(約11キロ)です。
 この物語は、とても長い物語です。エマオに向かう11キロある道で、二人は復活のイエス様とは気づかないままで、いろんな会話をします。一読すると、ずっと歩きながら話をしている印象があって、このことから、イエス様は私たちの人生に寄り添って語ってくださる方、という思いを持たれるでしょう。
 それは確かなことです。しかしこの物語は、実は「歩いている」という動きはほとんどありません。動きがわかるのは、「イエスご自身が近づいてきて一緒に歩き始められた」(24:15)という箇所と、「一行は目指す村に近づいた」(24:28)箇所だけです。この物語のほとんどは、立ち止まったままの中で会話がなされているのです。「二人は暗い顔をして立ち止まった。」(24:17) この言葉があって、ずーっとイエス様と立ち止まったままの会話です。その時、イエス様がなさったことは、「聖書全体を」を説明された(説き明かした)ことでした。
 私たちの側からすると、イエス様が共におられることを体験的に知るのは、暗い顔をして立ち止まる時なのかもしれません。そして、自分にとってマイナスと思えるような時にこそ、イエス様から「み言葉が語られて」ということなのかもしれません。そうであれば、私たちの暗い顔は、祝福にいたる顔です。
 家について食事の席での「賛美の祈りを唱え」(24:30)という言葉は原文にはありません。原文では、「イエスはパンを取り、祝福して裂き、彼らに渡した」と書かれています。