黙想の糧(10月27日)
ルカ7:11〜14

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、担ぎ出されるところであった。母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。

「ナインの町の憐れみ」

 ナインという町の、あるやもめの一人息子の死んだのです(ルカ7:11〜)。母は泣いていました。聖書はその時のイエス様を「憐れに思い」という言葉で表現しています。この言葉は聖書の中ではとても強い言葉で、ギリシャ語は「スプランクニゾマイ」です。おなかの中から、はらわたから突き動かされるという言葉です。慈しみとも訳されます。
 神様がお腹の中から痛みをおぼえられて、神の心そのものであるイエス様の慈しみが注がれたできごと。ルカだけが記したこのこの慈しみはイエス様の十字架において頂点に達します。
 ナインという町は、ナザレの南東6キロに現在もあります。今は完全にイスラム教徒のアラブ人の町になっています。しかし、ナインでの奇跡を記念する教会がひとつだけあります。そこを守っている家族だけがクリスチャンで、その家族が代々教会をを守っているのです。町の全員はイスラム教徒です。そのため、ナインの教会を守っている家族は、家族で外出ができません。家族で留守にしてしまうと、イスラム教徒が教会を壊してしまうのです。ですので、必ず家族の誰かがいて、教会を守っています。巡礼者もさほど来ないナインの町ですが、イエス様の慈しみは、このような形で今もこの町に残されています。
 私たちも、しばしば可哀想に思うとか心配するという気持ちを持つことがあります。でも私たちがそのように思うとき、大抵の場合、他人もそのように思っているでしょう。しかし、イエス様の憐れみは、人からは働きかけようのないところで起こされます。人々から退けられ、もう誰も立ち入ることができない人のところで注がれるのです。ルカはこの福音書で、サマリア人、放蕩息子、そしてこのナインの物語のところでこの「憐れみ」を描いています。(7:13、10:33、15:20)