黙想の糧(9月2日)
ローマの信徒への手紙9:6−16

ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、
また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。

「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」

ローマの信徒への手紙9:13「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉は、「神の選び」を考える上でとても重要な言葉です。この言葉は、旧約聖書のマラキ書1:2-3をパウロは引用しています。マラキ書は旧約の最後に置かれた新約との橋渡しとなる文書です。時代は、第二神殿の再建の時代。そこに満ちている空気は民の疑念や諦めの退廃的気分です。神殿再建に希望を持ちながらも、生活の苦しさは何も変わらない、変えれないという状況があったのでしょう。
礼拝などしても何になるのか?神を信じていない者の方がずっと栄えているではないか?(マラキ3:14)礼拝の要である祭司も、民の心も、主を畏れることを捨ててしまったかのようです。しかし、神は語られます。3:7「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち返る・・・」、と。
神は諦めません。民の心は神から離れてしまうことがあっても、神は民をご自分に連れ戻すことを諦めません。
創世記のヤコブは、自らの狡さによって兄エサウだけでなく父イサクにも背を向けた人でした。そのために、逃げ続けなければならなかった。でも、ヤボクの渡しで、神と格闘したとき、神に名を尋ねられたヤコブは、「ヤコブです(つかみとる者)」と答えました。ヤコブは、ただ自分の名前を言ったのではなく、はじめて神の前に、自分の罪を認めて「つかみとる者」です、と答えたのでした。神の選びは、その人を「低く」されるところから明らかにされていくということを物語っているように思います。