黙想の糧(12月15日)
マタイ3:1

その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝えて、 言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

「一度だけの洗礼」

 先週の説教で、洗礼者ヨハネの洗礼は、ユダヤ人に求めた洗礼であると話しました。マルコ福音には「罪の赦しを得させるため」と書かれています(1:4)。この洗礼は生涯一度だけのことです。イエス様の時代はユダヤ教の洗礼もありました。異教からユダヤ教への「改宗者洗礼」ですが、これも生涯一度だけのことです。キリスト教の洗礼も「一度だけ」です(例外の教会もあります)。では、キリスト教の洗礼の「一度だけ」の本質とはなんでしょうか。
 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、…新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)洗礼は「キリストと共に死に、共に甦り、新しい生に入るという根本的な転換そのものです。
 ユダヤ教の洗礼やヨハネの洗礼は、自分の生き方が、その人自身に問われて応答することが中心でした。しかし、キリスト教の洗礼は、神の恵みの豊かさに「入れられていく」ことへの応答です。恵みへと招く決断はすでに神の側でなされているのですから、キリスト教の洗礼は「一度だけ」なのです。神は人間のように、途中で決断を反古にすることをしないからです。
 キリスト教の洗礼は、告白行為をすることで神の恵みを獲得することではありません。神のわざの中に「包まれていくこと」を告白することなのです。それは、個人の歴史の一時点の事件であると同時に、神の救いの「教会の救済史」の中での一事件です。
 だからたとえ、洗礼を受けた後、何も変わらないと感じたとしても、イエス様の十字架と復活の恵みはその人から離れることはありません。神は生涯のすべてにおいて、あなたを守り支えると決断されたのです。