想の糧(9月29日)
マルコ10:45

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人々の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

「仕えるということ」

 新約聖書には「仕える」を表すギリシア語は5つあります。旧約のヘブライ語では2つです。それぞれ意味が違います。たとえば、フィリピ2:17でパウロは「信仰に基づいて…礼拝を行う際に」と語っていますが、ここでの「礼拝」という言葉は「仕える」を表すギリシア語の一つが使われています(英語はministry)。これは、元来は市民が公共事業を引き受けていく言葉で、私的な務めではなく、公共の奉仕を意味する言葉です。パウロが語った礼拝の「仕える」は、キリスト者の「公務」としての務めです(パウロは献金も「公務」として見ています。コリント二9:12)。
 それに対して、冒頭の聖句の「仕える」は、私的な務めです。元々の意味は食卓で給仕することです。しかし、この私的な務めは、まずキリストが私たちに仕えている事実から生まれるものであることを、冒頭の聖句は示しています。イエス様が、ご自分の生涯の目的を表す言葉として「仕える」を用いられたことは特に覚えておきたいことです。
 私たちが「仕える」というとき、まず公務であることは考えません。また、私的に仕えることは考えられても、それも各自の自由の範囲から考える傾向があります。しかし、聖書は決して私たちが思うような「仕える」ことを求めてはいません。
 そこに「キリストがいる」ことを見ているかどうかなのです。自分がそうしたいからとか、したくないからとかいうような「自分」が基準での行為ではありません。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」(ヨハネ12:26)