想の糧(9月15日)
マルコ9:50

塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。

「塩の契約」

 「自分自身の内に塩を持ちなさい。」(マルコ9:50)マタイ福音書には「あなたがたは地の塩である」との言葉もありますが、塩は聖書で大切な素材の一つです。冒頭の塩の意味について、調味料としての重要性や腐敗防止の役割から考える傾向が多いですが、旧約聖書の祭儀の視点から考えることも、示唆が与えられるように思います。
 レビ記2章には「穀物の献げ物(素祭)」の規定が書かれていますが、「塩」はそこで用いられ「契約の塩」と呼ばれています(レビ2:13)。これは幕屋で人間が神様に献げる贈り物としての祭儀でした。エゼキエル書には、理想の神殿の幻の中で、供え物の肉に加えられるものとしての「塩」が挙げられています(43:24)。
 祭儀で使われる塩は、特に精製された塩です。エズラ記を読むと、エルサレムの第二神殿には塩の倉庫があり、その一部はペルシア王によって供給され、一人の専門の役人の管理下にあったことがわかります(エズ6:9、7:22)。また非常に興味深いのは、エズラ記4:14に「王室から俸給をいただく臣下として…」とある「俸給」は、原文では「塩」と書かれていることです。ここでの「俸給(塩)」は、誰かに隷属して与えられる「恵み」の意味で使われています。
 総合的に考えると、「塩」とは、神様と結ばれ恵みを与えられた者が、犠牲を献げる覚悟をもって、自らが腐敗機能をもつこと、と言えるでしょう。イエス様は、このような「塩」を自分の内に持ちなさいと語られました。大切なことは、イエス様とどのようにつながっているかです。塩の機能は、イエス様が「主」で、私が「従」となってつながってこそ発揮されるのです。逆はありません。「塩に塩気がなくなれば(モーライノー)」(マタイ5:13)は、「塩がバカになるなら」が原語の意味です。