黙想の糧(9月8日)
マルコ9:35-37

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

「子供を受け入れる」

マルコ福音は、イエスの受難と復活の予告を3度記します(8:31、9:31、10:33-34)。その後の展開には同じパターンがあります。
①弟子たちは見当はずれなことを考えている(弟子の無理解)。
②イエス様は弟子たちに受難の意味を解き明かし、弟子たちを自分と同じ道に導く。
 2度目の予告の後で、弟子たちは「だれがいちばん偉いのか」という議論をしていました。十字架に向かうイエス様の歩みと正反対の「無理解」の姿です。イエス様はそこで「子供を受け入れる」ことを語ります。そして「すべての人の後になり、すべての人に仕える」ことを伝えます。そこで伝えたかったことは、十字架を信じる生き方とは、「子供を受け入れる」生き方なのだということでした。
 「子供を受け入れる」ことは、現代の私たちの感覚ではそれほど難しいことではないでしょう。しかし、イエス時代の子供についてのイメージは「無力、無能」です。イエス様が子供の手を取って、「彼らの真ん中で」抱き上げたということは、この無能力者である子供を大切にするという生き方こそが、十字架を信じる生き方なのだと語っているのです。イエス様は当時の子供の「無能、無力」な姿に、ご自分が十字架で釘付けされる「無能、無力」を重ねているのです。マタイ福音では、そのような姿を「最も小さい者」と表現しました(マタイ25:40)。
 イエス様の十字架の歩みを、弟子たちは理解できませんでした。3度も語られたのに、小さくなることがどういうことか、わからなかったのです。でもそれは私たちも同じです。
 復活のイエスと出会う時、「無能、無力」であるのは子供ではなく、この私自身なのだと気づかされます。その時から小さくされた十字架のイエスが、私の「真ん中」に現されていくことになるのです。