黙想の糧(7月19日)
マルコ1:40〜45

イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ……証明しなさい。」

「憐れみか、怒りか」

 重い皮膚病が癒されたのです。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ…その人は清くなった。」
しかしこの後です。イエス様は突然のように「厳しく注意して」、モーセ律法の清めの規定(レビ記13,14章)に沿って行動することを求められました。
 「深く憐れんで」とありますが、有力な写本(筆写された書)には、全く正反対のように「怒って」と書かれているものがあります。これを異読と言いますが、この箇所がマルコの福音の中で、最も議論のされる異読です。皆さんは、どちらだと思いますか?イエス様は「憐れんだ」のだろうか?それとも「怒った」のだろうか?
 「怒って」と書かれた写本の方が、マルコのオリジナルで、その後のイエス様の怒りを含んだような「立ち去らせ」の言葉と繋がるのではないかという学者も多くいます。
 私自身は「憐れみ」と「怒り」の両方とも、イエス様の心にあったのではないかと想像しています。重い皮膚病で、人目をはばからず出てきた(当時の律法違反)人の心を、イエス様が憐れまなかったはずはありません。しかし同時に、癒されたいから何をしても許されるという、この人への危惧も併せ持っていたように思うのです。
 イエス様の癒しの目的は、神の支配を宣教することでした(1:38)。病を持つ人は、誰しも癒されたいと思います。しかし、もし癒されたその人が、この次に別の病では癒されなかったとしたら…。神の願いは癒し以上の何かです。その何かとは、自分の願いも期待も、神に委ねたところから示されます。癒されないこの苦しみにも意味がある。私にそのことを教えてくれたのは、神の怒りと共に憐れみをも示された、主の十字架の出来事でした。