聖書
(コリント一15:1〜8)
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

(使徒言行録3:1〜10)
ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

「最も大切なこと」

今日の説教題は、「最も大切なこと」という題です。この題は、今朝開かれたコリントの信徒への手紙一15章3節の言葉です。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」この、最も大切なことという言葉は、「第一のこと」という意味です。
これしかないという意味です。その内容は、これです。
「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」以下続きますが、ここが中心です。

で、パウロはこの第一のことを「受けたもの」という表現をしています。
受けたもの、分かりやすい言葉で言えば「聞いたこと」だというのです。

みなさんいかがですか。みなさんにとって「最も大切なこと」パウロ的に言えば「第一のこと」ってなんでしょうか。わたしは、思い出すのですが、子供の頃に親に言われた第一の言葉は、「何をしていいけれども、人から後ろ指を指される人になるな」でした。わたしにとってのその言葉は長い間、自分は人にどう見られるかということで考えていたように思います。何をしてもいいけれども、何だあいつはって言われないようにしよう。人に迷惑をかけてはいけないなとか、困らせてはいけないなっていうふうにです。
だけど、イエス様を信じて、聖書を学んでいく中で、教えられたことは、「後ろ指を指される人になるな」ではなくて「後ろ指を指す人になるな」ということでした。

イエス様という方は、聖書を読む限り、後ろ指を指された人でした。だけど、イエス様は後ろ指を指すような生き方はしなかった。罪人、徴税人、娼婦ともイエス様は関わりを持って生きられました。イエス様の時代に、後ろ指を指された人の代表が「罪人、徴税人、娼婦」でした。だけど、イエス様はこのような人たちと食事を共にするんです。ザアカイなんてその典型的な人ですね。ルカ19章。自分は徴税人でイエス様と出会って、イエス様が今日あなたの家に泊まることにしているなんて言った。ザアカイは、自分の財産の半分を貧しい人に施しますっていうのです。イエス様と出会って、彼は徴税人を辞めたわけではありません。現実的には何も変わらない。だから、ザアカイは、相変わらず世間からは「人から後ろ指を指される人」だったのです。
だけど、イエス様は、ザアカイに対して「後ろ指は指ささない」のです。ザアカイの家に泊まったのでした。泊まるというのは、わたしはあなたを決して見捨てないという神の御心を表明しているんです。

イエス様は、見捨てない人でした。それは具体的には、聞く人であったということです。自分はこんなにすごいことをしている、自分はこれだけ人に尽くしている、そんなことは一切言わない方。ただ聞いて、罪人や娼婦の心にある、深い悲しみや苦しみを受け止め続けた方でした。しかし、ご自分は、人々から後ろ指を指されて、十字架で処刑されたのです。

パウロは、このコリントの手紙で、第一のことは、受けたこと、聞いたことだと言いました。本当は、パウロって、イエス様と劇的な出会いをした人ですから、私はこんなすごいことを経験しているんだって、これが福音だと言える立場の人であったのです。だけど彼はそれをしないのです。

コリントの教会は、パウロが2回目の伝道旅行で立てた教会ですが、大変問題の多い教会でした。教会員同士の争い、礼拝の乱れ、そして性的な乱れ。パウロが最初に伝えた福音からずれていってしまった教会がコリントの教会でした。

パウロからすれば、後ろ指をさしたくなる人がたくさんいたんです。
だけど、パウロは、そういう人たちに「一緒に聞こう」と言うのです。
最も大切なことは「私も受けたもの」だ。だからあなたがたも聞いてほしいというのです。パウロは8節でこう言っていますね。「月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と。これは「生まれそこないのようなわたしにも」という言葉なのです。
パウロは、伝道者としての使命を強くもっていたひとです。だけどパウロは、深いところでは、昔自分がイエスを信じる者を迫害していたことを忘れてはいません。だから「生まれそこないのようなわたし」と言っている。ただ、赦された自分がいるからこう言っています。

使徒言行録の3章は、ペトロとヨハネが神殿で足の不自由な男をいやす出来事がありました。この時、この男は、美しい門のそばに置いてもらっていたと、記されています。
エルサレム神殿に東の門があって、その門をくぐると境内があります。この男は、その門のそばにいました。そばというのは、門をくぐる手前のところです。この男は境内に入れてもらえなかったんです。まるで品物のように置いてもらっていた男でした。

そんな男の前をペトロとヨハネが通ります。そしてその男を「じっと見た」と聖書は記しています。男は、施しをもらえると思って二人を見つめます。そしてペトロがこの男に宣言するんです。「わたしには、金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」

ここに出てくる男は、生まれながら足が不自由だとありますが、原文では「母の胎内にいるときから」と書かれています。ユダヤではそのような人は罪人と呼ばれます。不浄とみなされて、宗教的な意味での罪があるとされたのです。だからこの人は、後ろ指を指されて生きてきた人です。そして自分では当たり前のことだと諦めていた人でした。

その男の前で、ペトロとヨハネは立ち止まったのです。
そしてじっと見つめた。みんなが通り過ぎていくのに、二人は立ち止まったのです。

なぜ、ペトロとヨハネは立ち止まることができたのでしょうか。聖霊が降って力を得たから?それもそうでしょう。でも一番の理由をあげるとしたら、それはペトロもヨハネも、イエス様を裏切って、後ろ指を指されてもしょうがいない自分たちだということを、よく知っていたからです。
そしてそんな私たちを、イエス様が赦してくださったことを、彼らは本当に知ったから、この男の前で立ち止まることができたのです。パウロが「生まれそこないのような私に」キリストが現れてくれたという、その思いと同じです。

「わたしには、金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」ペトロはそう言います。

この時ペトロは、本当は何も持っていないのです。持っているものをあげようと言っているけれども、ペトロは、自分が何かを持っている人間だとは思っていません。ペトロは、この自分を持っているのは、イエス様だということを知っているんです。

かつて、人一倍自分の熱心さや頑張りの信仰で、イエス様についていけると思っていたペトロです。だけど、ペトロは、あの大祭司の庭で、3度イエスを知らないといった時、彼は、イエス様と歩き続けた自分を、自分で壊してしまったのでした。ペトロは偉大な人ではありません。彼は信仰の失格者だったのです。
けれどもそんなペトロにイエス様が現れた。そして、イエス様はペトロに、私を愛するかと3度聞かれましたよね。

ペトロは、復活のイエス様と出会って、何が変わったのでしょうか。

ペトロが変わったのは、自分の中には、何もないということを知ったことです。ただこの私を持っているのは、イエス様なんだ。そのことをペトロははっきりと知ったのです。

「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと。」

この言葉には、私が主語にはならない。「最も大切なこと」という福音は、キリストが主語なんです。キリストが何をしてくださったか、それだけが福音の中心です。

で、最後にひとつのことを問いたいと思います。それは、この最も大切なことを信じるということは、私たちにとって、具体的にどういうことなのかということです。これを暗記して、告白して、心の中で信じるということが、福音で救われるということなのでしょうか。確かに、神学的に言えばそうなのでしょう。これを信じれば救われる。そう、神学的にはそうなんです。

だけど、実は福音は、ただ心で信じるだけだと、力にはならないのです。生活の中では力になりません。言葉はきついですけれども、それだけだと、机上の学びです。

私たちの信仰は、イエス様が持っているんです。イエス様が持っているということは、自分の感情がどうであれ、イエス様に信頼してやってみないと何も起こらないし体験化しないのです。ペトロが足の不自由な男の右手を取って、彼を立ち上がらせたとありますね。ペトロは、自分に自信があったのではないのです。イエス様が自分を持っている、そのイエス様に自分があることに信頼したのです。だからペトロは、イエス様の手となって、自分の手を伸ばしたのです。自分の手に自信があったからではありません。

私たちが日常の中で、イエス様の福音が具体的になっていくのは、そして本当に自分の喜びとなっていくためには、自分が誰かのために、手を伸ばすということになしには体験化されてはいきません。もっと言えば、私たちが手を伸ばさないと、福音は伝わっていかないのです。福音を伝えるためには、イエス様の手となる人が必要なんです。

みなさん、私たち今日のこのことが神様に願われています。私たちの手を誰かのために使っていきましょう。それで私を誇るのではありません。パウロがいったように、私たちもまた、月足らずで生まれたものではないですか。こんな私たちのために主は死んでくださって、復活されて、あなたを見捨てないと言っておられるのです。私たちの手を、主に使っていただきましょう。この手を誰かに差し出すのです。じっと立ち止まって、イエス様が愛してくださった愛の一パーセントでもいいから、その眼差しを誰かに向けていくこと。それこそが、最も大切な福音が、私たちの喜びとなる時です。