黙想の糧(11月18日)
ペトロの手紙一3:17〜18


神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

「正しくない者だからこそ」

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」(ペトロ3:18)
正しくない者たちとは、不義、不従順、悪を行う者たちのことです。その対極にあるのが「善」という生き方で、ペトロは「義」という言葉で言いかえています(ペトロ3:14)。
旧約聖書では「義」という言葉は、ツェダカーという言葉ですが、第一の内容はトーラー(律法)の戒めを実践することです。これを行うことが、神の御心に従い、神に栄光を表し、地上に神の国の到来を早めることになるのでした。また2番目の内容としてのツェダカーは「貧しい人を助ける(慈しむ)」ことです。貧しい人は、家督の相続権を奪われた者でした。それゆえ、もうひとつの「義」は、社会や共同体の過ちから生じた「貧しい人」を助けることで、共同体の失われた調和の回復を考えたのです。

預言者ミカは、このことを的確に表現してこう語っています。
「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるか・・・
正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)

ペトロの手紙は、キリストは「正しくない者たちのために苦しまれた」と語ります。ミカの言葉から考えると、人は表向きの「義」とか「善」を行うことはできるけれど、神への「へりくだり」から生じる「義」には至れなかったということでしょう。それだけ人は、自分を正しい者であるところに置きやすいということかもしれません。

パウロはロマ書で人の言葉にそのことが表れると言いました。

皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、
彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
(ロマ3:12-14)

正しくない者がキリストの恵みによって正しい者とされているだけです。
そのことをいつも覚えていたいと思います。