黙想の糧(3月10日)
ペトロの手紙二 2:1-2

かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、

「異端はどこから」

 ペトロ二の手紙は新約聖書の中で最後に書かれた書簡で、2世紀初頭の教会の姿が浮き彫りにされています。手紙の中では、「異端」の問題について言及されています。主イエスの十字架刑から100年も経過してから書かれた手紙です。イエス様は見える姿では地上におらず、また直接の弟子であった使徒たちもすでに召されています。あの伝道者パウロも殉教して50年以上たっています。教会の中の人々は目に見える現実的な約束がほしくなっていたようです。そこには、現代の教会に集う私たちにも重なり合う思いがあるように感じます。
 異端(ハイレセイス:複数形)という言葉は、聖書に多く出てきませんが、分派、分裂と訳が変えられて度々出てきます(使徒24:14など)。この異端と訳された元の意味は、「(自分のために)選ぶ」という意味です。つまり、聖書が「異端」と呼ぶ教えは、「キリストのために、私は選んでいく」という視点が抜けているのです。キリストの眼差しの中で生きることを選択して生きるためには、「キリストを知る」知識がどうしても必要です。例えば、イエス様は恵み深く憐みに満ちておられる方ですが、その恵みや憐れみは、必ずしもわたしたちの願うとおりのものではありません。そのことを聖書から学んでいないと、生活の中での「体験的に知る」力になっていきませんから、自分の都合の良いイエス様を作り上げてしまうのです。異端の教えの根っこはそこにあります。
 異端と正統との分岐点は、決して自らを正しい者とすることなく、自分の頭の中でイエス様を造らずに、主が私に何を願っているのだろうかと、そのことを問いながら、み言葉に聞いて歩もうとするところにあるのです。