黙想の糧(7月12日)
マルコ1:29〜39

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 シモンとその仲間はイエスの後を追い、 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

「癒しの先にあるもの」

 神の救いは、今の私にどのように働いているだろうか?信じる私が救われたというのであれば、一体何から救われたのだろうか?そして、その救いは私をどのように変えただろうか?神の救いと私の現実はつながっているだろうか?
 イエス様の伝道の初め、多くの人々がイエス様の元へ押し寄せました。夜遅くまで癒しの働きは行われました。こんな人は見たことがなかったし、魅力的だったのです。早朝もイエス様を探して癒しを求める人たちがいたようです。でもイエス様は、自ら進んではその人たちの願いに答えようとせず、「他の町や村へ」行こうとします。 病が癒されても、またいつか病になる時がきます。その時の苦しみから逃れても、また新たな苦しみが襲い掛かります。イエス様を信じても、それは変わることはなく、気分のいい心の状態の時もあれば、そうでない時もあります。私たちの関心ごとは、いつも「わたしにとっての理想的な神様探し」です。教会にもそのような、理想的な神様を求めていて、自分のフィーリングにあった神様でないと、途端に嫌になります。それは、私たちの誰もがが避けれない感情なのだと思います。
 イエス様の癒しは、「神の国の訪れ」を宣言することでした。神の愛の中に帰って来なさい。それを身を持って示したのが、悪霊追い出しであり、病の癒しでした。その先にある神への回帰の中で、神の慈しみと憐れみを、それぞれの人生の中に刻み込んで欲しかったのです。
 自分の思い通りではなく、神の思い通りの中で生きれますように。神の愛だけがあなたを支配しますように。