黙想の糧(6月30日)
マルコ7:24〜30

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

「福音を聞く」

 先週は「エッファタ(開け)」という福音を聞きました(マルコ7:31〜37)。小欄では、その前に置かれている(7:24〜30)、一人の母親とイエス様の出会いの出来事から聞きます。
 ある母親が、「娘から悪霊を追い出してください」とイエス様に嘆願しました。彼女は異邦人の女性です。イエス様の答えは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」でした。“子供”はイスラエルの民のこと、“小犬”は異邦人のことですから、イエス様はこの時、母親の願いを拒絶したのでした。しかし、母親は引き下がりません。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」  母は、謙虚に、ひたむきに、精一杯願います。そして、イエス様はその姿に心を動かされていきます。イエス様の姿は、旧約聖書で、人間の痛みや叫びに心を動かされる神の姿とも重なります。
 イエス様は母親に語ります。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。…」この翻訳はかなり意訳されています。原文では「その言葉のゆえに行きなさい」と書かれているだけです。イエス様は、「あなたのその言葉で十分である。行きなさい」と言われたのでした。母親の嘆願(祈り)を受け入れて、神による福音の言葉として母親の中に逆戻しをしていくイエス様の姿がそこにあります。
 福音は、イエス様の言葉を聞かなければ自分の中に入ってきません。入ってこなければ生活の中での力にはなりません。福音を聞くということは、イエス様との交わりの中で、なぜ?どうして?と「問うこと」が大切なことであると、母親の信仰は私たちに教えています。