黙想の糧(11月4日)
ペトロの手紙一3:1〜6


同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。

「笑ったはずのサラなのに」

 ペトロの手紙一3章で、著者ペトロは、もし夫が御言葉を信じない人であっても、「自分の夫に従いなさい」と語ります。ペトロはそのことの理由として、妻の無言の行いが「神を畏れる生き方」として夫に伝わるからとも語ります。
 このペトロの説明を私たちはどのように理解したら良いのでしょう。無言の行いが、神を畏れる生き方として、夫に伝わらない場合もあるのではないかと思うからです。言ってもわからない相手に、無言の行いが伝わるのだろうか。そんな疑問が湧いてきます。ペトロはどういう姿が、無言の行いで大切だと考えているのでしょうか。
 ペトロは、創世記のアブラハムとサラの物語を語ります。「サラはアブラハムを主人と呼んで彼に服従しました。…何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。」これは、創世記18章で、ある人が、年老いた妻サラに男の子(イサク)が来年生まれるとアブラハムに預言して、それを聞いていたサラが「ひそかに笑った」という所です。その後、笑ったサラを主(神)は「なぜ笑ったのか」とアブラハムに問います。
 ペトロがこの物語から解釈したことは、サラが誕生の預言を「ある人」ではなく、「神の言葉」として聞いた「恐ろしくなり…」という姿を通して、アブラハムへの従順を見たからです。サラは、そんなことがあるわけがない、常識的に考えれば馬鹿馬鹿しいと思うことを、「神の言葉の約束」として「聞いた」のでした。アブラハムに従ったのは、「神の言葉」がアブラハムとの関係の中で、生きて働いていると信じたからでした。言いかえれば、神の言葉を聞く中で、サラは畏れを持つほどに変えられたのです。「無言の行い」とは、御言葉を聞いて変えられていく所から生じる行いです。