黙想の糧(7月26日)
マルコ2:1〜12

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

「罪の赦しは必要ですか?」

 「子よ、あなたの罪は赦される」イエス様が中風の人に言われた言葉です。中風の癒しを求めたのに、どうして罪の赦しを言うのだろう?って思います。
 聖書は、すべての人は「罪人」だと語ります(ロマ3:23)。また、「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6:23)と語り、さらに、「神の裁きの座の前に立つ」(ロマ14:10、二コリ5:10)と語ります。これらの聖句は、私たちがどのように考えようと、「罪の赦し」は、すべての人に必要なのだと告げているのです。
 洗礼を受けたから、もう罪と無関係になるのではないでしょう。教会生活を長く送っているからという理由も通用しません。罪感覚に乏しく、それなりに自分はまともだと考える人は、あの人よりは私の方がましだと、誰かを見下げていることに気づいていません。その無自覚さは、神の言葉を聞こえなくさせるだけでなく、周りの人の心をも聞こえなくさせていきます。
 イエス様は福音書のあらゆる場面で、神の(罪の)赦しと人間同士の赦し合いが結びついていることを語っています。もし、そんな赦しは自分にはいらないと思うなら、その人は、神の愛にずっと気づけないままでいることでしょう。赦しの宣言の側で、「この人は、なぜこういうことを口にするのか」と思う律法学者は、神を熱心に求める信仰の人だけど、イエス様の愛には気づけなかった。
 なぜイエス様は十字架にかかられたのか。なぜ聖書はイエスを信じよと語るのか。聖書があなたに問いかけています。神の赦しをあなたは必要としていますか?