聖書
(出エジプト記3:1〜10)
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

「低きに降る神」

モーセの生涯は120年だったと聖書は伝えています。新約との関係で言えば、モーセの生涯を40年毎に区切って説明した人が、使徒言行録に出てくるステファノという人です。彼は初代教会において有力なメンバーでしたが、イエス・キリストを証しする説教をして、そして結局石を投げられて殉教してしまいます。その彼が、その説教の中で、今日開かれた燃える柴のできごとの時、モーセは80歳だった事を記しています。(使徒7:30)ステファノによれば、モーセは生まれてから40才までがエジプト。そして40歳から80才までが、今日の物語の背景にあるミディアンという荒れ野での生活です。そして、その後の40年、120歳までが出エジプトでの荒れ野の40年です。

ですので、今日のみ言葉は、モーセが80歳頃の時のことです。この時、神様は初めてご自分の名前をモーセに明らかにしました。以前の説教でも触れましたけれども、「わたしはある、あるという者だ」とご自分を現したのです。

で、このことは、新約の時代になって、ペンテコステの時に聖霊が降ったこととも深い関係があるようにわたしは思っています。というのは、ペンテコステの時に聖霊が降ったのですが、それは言葉を変えて言えば、神様は聖霊を送るという方法で、ご自分を現したのです。それが後の教会、ひいてはキリスト者を支える大きな力となっていくのです。

聖書が私たちに教える神様は、隠れている方ではありません。十字架のキリストを頂点として、ご自分をその時代時代の中で、またある状況の中で、特別にご自分を現すことがあります。

今日与えられた出エジプト記では、モーセを通して現れる神は、モーセに直接語りかけるのです。このところから、神様はどのようにして人に語りかけるのだろうか。また、語りかける神の御心はどのようなものなのだろうか。そのことをご一緒に聞きたいと思います。

今日の物語の背景を少し説明します。モーセは、最初の40年、彼はエジプトで王宮で生活をしていました。しかし、あることでエジプト人を殺してしまったのです。モーセは、エジプトの王ファラオに自分が殺されるのではないかという恐れがあって、逃亡したのですが、逃亡した理由はそれだけではありません。モーセがエジプト人を殺したのは、同胞のヘブライ人が苦しめられていたからです。だけど、モーセはヘブライ人でありながら、王宮で生活して、重労働をしたことがないわけですから、実際に重労働をしているヘブライ人からしてみれば、モーセは何をしたってよそ者なのです。自分たちの仲間とは思っていないのです。モーセはエジプトから逃げてミディアンに行く理由は、殺されないようにすることと同時に、誰にも受け入れられなかったからなのです。ミディアンに辿りついたモーセは、ミディアンは、アラビア半島にありますが、そこで、結婚して子どもが与えられます。ミディアンの地で、モーセは40歳から80歳を過ごしたのです。

その40年間は、モーセにしてみれば、過去の殺人からくるおびえや不安をぬぐいさるに十分な時間だったかもしれません。そして、誰にも受け入れられなかった孤独感も少しは癒えたかもしれません。妻も子どもも与えられた。仕事は羊飼いです。ミディアンという荒れ野は異教の地です。自分の先祖が信じてきた神様はいないところです。そこでモーセは羊飼いとして生きているんです。平凡かもしれないけれど、羊の群れを世話する生活の中で、こういう日々がずっと続くんだなと思っていたことでしょう。同時に、この異教の地で、私の人生は終わっていくんだと、諦めのような気持ちもあったかもしれません。

しかし、そのまさにもう何も変わらないと思っていたその日常の中に、ある日モーセは羊の群れと共に、「荒れ野の奥に行った」と聖書は記します。

1節に「荒れ野の奥」と何気なく書かれています。これは、荒れ野の「後ろ」という意味ですから、荒れ野の奥深いところいう意味ではありません。通常羊飼いがいかないところ、別のところにモーセは行ってしまったということを意味しています。平穏無事な生活の中で、ある日突然のように、予期しなかった道に入ってしまった、そのことを語っています。

そしてそこは、神の山ホレブです。そこで柴が燃えていたと書かれています。

モーセは、燃える柴を見てこう言います。3節です。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
ここに出てくる「道をそれて」という表現は「離れる」という意味です。ここで聖書が伝えたいことは、ただ違う道に行ったということではなくて、モーセが「今の生活から離れて行こう」としたということを実は伝えようとしているのです。

モーセには80年の過去があります。長く生きてきて、今の生活でもう充分、この生活は変えたくない。そう思う自分もいたでしょう。だけどそう思いながらもくすぶる自分がいて、もしあそこに何かがあるなら、その何かを見つけたいとする気持ちがあったということがこの言葉からわかるのです。今の生活から離れて行こうとしたモーセがいるのです。

そしてそのとき、柴の間から「モーセよ、モーセよ」と、神様はモーセに声をかけます。モーセは「はい」と答えます。

そして神さまはこう言われました。
「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
この言葉が、今日の説教の中心の言葉です。この言葉は、モーセに汚い足で立ってはダメだと言ったのではありません。
モーセの時代以前、神様はこんなことを言ったことは一度もありません。どういうことかというと、このできごと以前は、神様は天におられる方で、その天が聖なるところだったのです。だけど、このモーセに現れた神は、地上の誰も知らないところ、「荒れ野の奥」に降ってきて、「そこが聖なる土地だ」と言ったのです。

そこで神様が「履物を脱ぎなさい」と言ったのは、高みに立って言っているのではありません。モーセよ、あなたも私と出会うために心を開きなさい。それが履物を脱ぎなさいという言葉になっています。

またこうも言えます。履き物というのは、旧約聖書では、多くの場合、所有権の取得を意味します。例えば、履き物を投げる(詩60:10)とか、足を踏み入れる(列王上21:15−16)などはその例です。ですから、履き物を脱げというのは、別の視点から見れば、神と出会う時には、自分の所有権を放棄しなさいという意味でもあります。

私たちも日常の生活の中から、こうして神様に呼ばれて、出会いたくて、教会に集まってきています。その私たち、自分の履物を脱いでいるでしょうか。いいかえますね。自分の所有権を放棄しているでしょうか。

「足から履物を脱ぎなさい」 これは、教会に来たら、いろんな重荷をここでおろしなさいということでもあります。捨てれない悩みや苦しみも、ここでは忘れたっていいと言っているんです。それが所有権の放棄です。神様は、モーセにそのことを告げたのです。

そして、もう自分では人生が終わったと思っていたようなモーセに、あなたは終わりじゃない、神様がご自分の約束を実現するための器として用いようとされるのです。
9節10節の言葉がそれを言っています。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

聖書が告げる神様は、私たちが、日常の生活の中で、誰にも知られたくないような、迷い込んでしまうようなところに降ってこられて、そこから新たなところへ行かせるために語られるお方です。

モーセ80歳。過去の40年間は、落ち着いた生活を実現できたようで、本当の自分の姿をさらけ出すことができない時間でもありました。うまく自分をごまかして、隠して生きれる時間でもありました。自分からはごめんなさいとか、すみませんと言えないモーセがいたのです。私たちもたくさん言えないことってありませんか。人はよく墓場まで自分の苦しみを持っていくなんていいますね。だけど、神様はそのところに降ってこられたのです。そして、本当の姿を出すことができないモーセに、神様の方が低くなってくださって降ってこられて、モーセに声をかけて、行けと言われるのです。

新約聖書で、復活のイエス様は、40日弟子たちに現れて神の国を伝えて、天にあげられていきました。そうしてイエス様は見えなくなりました。それから、弟子たちは10日間120人集まって祈っていたんです。この祈りの場面は、今朝のモーセの出来事でいえば、自分の履物を脱いだ場面と重なります。祈って祈って、神様と出会うための備えをして、心を開いたんです。

そして、ペンテコステの日に聖霊なる神が降って来られて、弟子たちは福音を語り出していきました。モーセに告げられた神様の行けという言葉が、イエス様の弟子たちにも起きたのです。聖書のできごとは、わたしたちのできごとでもあります。

神様は今日も私たちの人生の最も深い所に降ってきておられます。この方の前で、私たち、自分の履物を脱ぎましょう。自分の所有権を捨てて、神様に委ねて祈るんです。

神様は、あなたはもう終わりだとは言いません。行けと言われるんです。神様の言葉です。だから自分でもう終わりなんて思わないでいいんです。終わりは神様が決めるんです。だから、行きましょう。行けというのは、神様と共に歩み続けなさいという意味です。私たちの救い主、復活の主イエス・キリストが私たちの歩みを根底から支えてくださっています。