黙想の糧(1月27日)
ペトロの手紙一 5:5〜6


「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。 」

「聖書が語る謙遜」

 「皆互いに謙遜を身に着けなさい。」(ペトロ5:5)聖書が語る謙遜は、「低くする」という言葉と「心」という言葉が合わせられたギリシア語です(タペイノフロスネー)。この言葉は、当時のギリシア哲学では卑しい行為の言葉として捉えられていました。
 この「タペイノフロスネー」をさらに掘り下げてみると、地面から頭をあげることができない心の状態、他人にふみつけられ、たたき伏せられている状態を指す言葉として理解されていることがわかりました。
 日本語での謙遜の意味を調べてみると、「自分を低い者として、相手に対して控えめな態度をとること」と書かれています(新明解国語辞典)。このような態度、心の状態なら、私たちもいつもではなくとも、できる持ち方のように思います。しかし、上記に記した聖書が語る「謙遜」は、自ら進んで行うことはほぼ不可能な気がします。なぜなら、聖書が語る謙遜は、私たちの言葉で言いかえれば、「屈辱」なのですから。
 ペトロは、この手紙を書き終えようとする中で、そのような「謙遜」を“身に着けなさい”と呼びかけます。この「身に付ける」は、新約聖書でここだけにしか使われていない言葉で、奴隷の前掛けを意味します。ペトロがこの言葉を使ったのは、ヨハネ福音書で、イエス様が弟子たちの足を洗った時の「手ぬぐい」を腰にまとわれ(ヨハネ13:5)、奴隷のようにして仕えてくださった姿を思い起こしているのです。
 裏切り離れ去っていく弟子たちの足を洗ったイエス様の姿は、晩年のペトロにとって忘れることのできない愛の記憶でした。この主の愛が、ペトロを愛の人として作り変えたのでした。伝道はイエス様の愛によってなされていきます。その愛が、私たちにも注がれていることを覚えたいと思います。