黙想の糧(7月21日)
マルコによる福音書7:5〜15

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 イエスは言われた。・・・あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 ・・・こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

「聞いて悟りなさい」

 マルコ7章は1節〜22節の前半が、ユダヤ人の中での出来事で、24節〜37節の後半は異邦人の地での出来事が記されています。ここでの大きなテーマは「イエスの心は何を見ているか、何に心が動かされているか」です。
 前半部では、ファリサイ派の人々の敬虔を装った態度に、イエス様は決して心を動かされません。しかし後半部で、たまたま出会った異邦人の女性の中に素晴らしいものを見つけます。また、耳が聞こえず話すこともできない一人の人間の苦しみに、イエス様は心を揺さぶられるのです。ユダヤ人ではなくイエス様と直接心を通わせた人たちに福音が宣べ伝えられていく。ここに、福音がどのようにして広がっていくかがよく表されています。
 ファリサイ派の「ファリサイ」という言葉は分離するという意味ですが、彼らは律法を知らず汚れた民から自分たちを分離しました。古くからの律法を現在に適応できるように解釈した教え(口伝律法:後のミシュナ)を大切に守り、民衆を指導する立場にありました。しかし、民衆には容易なことではありませんでした。ここに、ファリサイ派が熱心であればあるほど、他の人々は罪人だという構造が生まれます。そして、本来人を幸せにするはずの律法は、人を苦しめ、生きた神との交わりを失わせていくようになります。
 イエス様が大切に考えておられたことは、生きた神と人との交わりです。神様と私たちの間に「人間の言い伝え」という解釈を置くのではなく、異邦人の女性のように、生身の自分自身で、ただイエス様にぶつかっていくこと。そのときに、イエス様の心、福音の言葉を私たちも聞くことができます。
 日々の生活の中で、イエス様との交わりの時間を持ちましょう。“人の”ではなく、”キリストの”言葉が豊かに宿りますように。