黙想の糧(9月30日)
ペトロの手紙一2:5〜8

あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

「隅の親石につながる」

  聖書には、私たちがさっと通り過ぎてしまう言葉で大切なことを語ろうとする言葉があります。その一つが「石」です。
 たとえば「石を立てる」という言葉(創28:22、31:45、申27:2、ヨシュア24:26他)は、この表現で神と人との契約を聖書は語ろうとしています。モーセ五書やヨシュア記の中にこの表現は見られます。
 しかし、聖書の舞台であるパレスチナは、草も木も生えていない岩ばかりの山の多いところで、やがて「石」という言葉は「偶像」を表す言葉ともなっていきます。そのためか、石は、つまらないもの、捨てても困らないもの、頑なさを表す表現としても用いられています。
 ペトロ一2章に出てくる「石」は、神殿を建てる時の素材としての「石」が念頭に置かれていますが、人が「捨てた石」「つまづきの石」「妨げの岩」といった価値のない石の中に、もっとも大切な「隅の親石ーイエス・キリスト」があるのだと語られています。
 隅の親石の機能は、要(かなめ)として2つの壁をつなぐ役割を果たすことです。隅の親石を真ん中にして、それぞれの異なる石の形が組み合わされていくのです。そして、ペトロはそれこそが、「教会」であると語ります。「あなたがたは、かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」とはそのことです。(2:10)ここには、旧約時代のモーセ五書他で表されていた、「石を立てる」という神と人との契約が、イエスという石を真ん中にして、教会において実現するというメッセージがあります。