黙想の糧(7月22日)
創世記35:16~18

一同がベテルを出発し、エフラタまで行くにはまだかなりの道のりがあるときに、ラケルが産気づいたが、難産であった。ラケルが産みの苦しみをしているとき、助産婦は彼女に、「心配ありません。今度も男の子ですよ」と言った。 ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき、その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付けたが、父はこれをベニヤミン(幸いの子)と呼んだ。

「苦しみの子から幸いの子へ」

 ヤコブの妻ラケルは、自分の死とひきかえに子ども生み、その苦しみから、子どもの名前を「ベン・オニ(苦しみの子)」と名付けましたが、父ヤコブはその名前を「ベニヤミン(幸いの子)」と呼んだ(改名した)ことが記されています(創35:1)。このことは、単なる名前の変更ではありません。聖書は「神が名前が呼ばれる」ことでの、死から生への大転換をここで語ろうとしているのです(創35:18))。
 聖書が語る「死」は、肉体的な死というよりも、交わりが奪われることを意味しています。たとえば、詩編の詩人が重い病気に陥ったとき、陰府(よみ)に落とされていると考えたのは、神から見離されて、生きた交わりが絶たれたと感じたからです(詩88:4)。
 マルコ福音書10章の盲人バルテイマイは、自分は神との交わりが絶たれた者だと思っていました。イエス様に癒される前は「道端に座っていた」と書かれているのは、そのことを表しています。しかし彼は、癒されたあとは、「イエスに従う道」を歩みました。彼は、神との交わりの断絶から回復へと人生が変えられた人となったのです。
 バルテイマイの「見えない苦しみ」は、身体的なことより、真の神との交わりが絶たれていたことの苦しみでした。癒されて、イエスに従う道を選んだバルテイマイは、十字架の道を歩んだわけですから、その意味ではたくさんの違った苦しみを経験したことでしょう。しかし、イエスに「呼ばれて従う人」は、神の責任において、神が「幸いな子」と呼んでくださるのです。それが、聖書の約束です。